親切
震災の後、各企業が営利目的のテレビコマーシャルを控えているからか、ACジャパンの公共広告が盛んに流れます。視聴者からくど過ぎるとクレームのついたものもあるそうですが、男子高校生が電車の中でお腹の大きい妊婦さんが目について、席を譲ろうかとちょっと躊躇した瞬間に、若い女性がさっと立って席を譲り先を越され、譲れなかった高校生の後悔の表情に、「心は誰にも見えないけれど、心遣いは見える」と、宮沢章二さんの詩の一節がながれます。
続いて先ほどの高校生が、歩道橋の階段を杖をついてゆっくり上っていくおばあさんを一旦通り越してから、戻っておばあさんに手を貸して上ります。そのあとの高校生の表情が清々しく、おばあさんの穏やかな喜びの表情、そしてまた「思いは見えないけれど、思いやりは誰にでも見える」とメッセージが流れます。
こういう心遣いや思いやりの行動をしようとするとき、その労力の苦痛より、相手がどう受け取ってくれるかと、声をかけることを躊躇するものです。そして行動する機会を逃してしまうと、行動しないことが当たり前になってしまい、それどころか、行動することが「おかしな事」「恥ずかしいこと」に思えてしまうことさえあります。でも勇気をもって声をかけて喜んでもらえ感謝されたら相手以上の喜びが感じられます。やはり思ったらすぐ行動するべきです。
こういう行動を一般的に親切といいますが、「親切」、と言う文字、「親を切る」とはちょっと穏やかでない気がしますが、もちろんそういう意味ではないそうで、「親」は「親しい」「身近に接する」という意味で、「切」は刃物をじかに当てるように、「身近である」「行き届く」という意味だそうです。つまり、身近に寄り添い、行き届くようにすることが「親切」だそうです。また思い入れが深く切実であることの意味で、古くは「深切」の字が用いられていたこともあるそうです。
ベゴニヤ 花言葉「親切」
普段の行動で他人に親切にするのはよいことですが、今回の被災地への支援は親切なんていう気持ちで済むことではないと思われます。同じ国の国民として被災者支援と復興に対して一致協力する義務があると考えるべきでしょう。
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