串柿の里
祭りの話が続きますが昨日23日隣町かつらぎ町四郷地区「串柿の里」で平成の世になって村興しのイベントとして始まった第24回「串柿祭り」がありました。串柿と云えば関西では正月の床の間鏡餅飾りに欠かせないものです。
串柿が縁起物になった後付け理由かも知れませんが干すとき編んだ紐のとろで個数分けして、
なんてことも云います。
最近は団地サイズとかマンションサイズとか云って5個挿しのもあります。
その串柿の殆どがこの「串柿の里」で造られます。今がその串柿製造の最盛期で里は皮を剥いて串に挿し、10串を紐で編んで吊るした柿のオレンジ色一色に染まります。
大阪と和歌山の府県境和泉山脈の和歌山側南斜面標高300Mくらいのところに在る四郷地区はこの時季、そのオレンジ色の山里回遊ののハイキングコースとしても賑わいます。午前中にハイキングを済ませ麓の旧四郷小学校校庭の串柿祭り会場に戻れば色々な屋台も出て、弁当を用意してなくて催しものを見ながら腹ごしらえも出来るのです。
四郷千両太鼓
ジャンボ巻ずし
12月半ばには乾いてこの状態になり、各地へ出荷が始まります。
串柿の起源については確かな記録はないそうですが700年前、現在の岐阜県蜂屋村の甚太夫という人が干し柿の製造に苦心して、研究の結果成功し、後鳥羽天皇に献上したという史実があるそうです。
これを一般的に普及させたのは武田信玄と云われており、信玄は大いに農民に柿の栽培を推奨し干し柿の製造を奨励したそうです。
四郷地区の串柿製造についても、これという確かな記録は少ないのですが、今からおよそ400年前のこと、紀州徳川公が、四郷村には特産物がないため、串柿を製造してそれを特産物として売り出すよう勧めたという言い伝えがあるそうす。
また、豊臣秀吉がこの近くの根来寺を攻め落としたとき、この土地の人達が、秀吉に串柿を献上したとの言伝えも残っています。
串柿は栄養価も高く、戦の時の保存食として重宝され、また、酒酔いにも効果があることから重宝がられたとも云われています。
また、柿は長寿の木とされ、幸せをカキ集める、「嘉来」(かき)で喜び幸せが来るという語呂合わせもあるそうです。
しかし串柿用の柿の木は古い高木が多く、登って取るのは危険な仕事です。なのにこの里も高齢者が多く若者は少なくなって「串柿の里」を守っていくのも大変のようです。
串柿用の高い柿の木
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